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タオ落書帳
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頭の整理の落書きです。
考えや思いは、しゃべるか書くかでないと、頭の中でのグルグル回しになってしまいます。

弁証法は「正・反・合」
未知なる「反」があれば、未来の「合」が開かれる。
お付き合いいただければ幸いです。
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「俺のこっちゃないスイッチ」

2013/01/31 11:53
他者に何かを説明しなければいけない事態になって気づくことは、「説明不能」という現実の壁。その壁は他者ではなく、自分の未熟によるもので、他者との関係の希薄さによるものでしかない。いわゆる、養老さんのいう「バカの壁」なんだろうと思う。

「批判」ということを考えてみると、自分と関わりは密接なんだが、それを判断したり分析する立場に自分がいるわけではない問題や課題、例えば政治や経済や文化ということでは、「ああすればこうなる」的な単純思考で考えたりしゃべったり書いたりすると、「批判」ということになるんじゃないかと。

自分が判断や分析しなければならない立場であれば、「批判」ではなく、まずは、「できること」を考え、周囲の関係を考えるということに集中するしかない。そして、単純に解決できるはずもないから「問題・課題」なわけで、明らかにその場合の「批判」は逃避や回避ということでしかないはず。

そこでの難しさは、「できること」の模索ではなく、周囲との関係、他者への「説明」にあるのだと思う。今日の朝日新聞で高橋源一郎氏は「対話」ってことで、そのことを説明されているのだと思います。

それに、「判断」というのが、「正しい」ということになることは不可能で、現実にはその判断は、bestではなく、良くってbetterでしかないわけで、どんなにうまくいったとしても、未熟さというのは避けられないわけで、「いじめ問題」みたいな悪者探し、「責任追及」ばかりの「批判」という責任回避が横行するから、毎年首相が変わるという昨今の日本の状況が当たり前ということなんじゃないか。
将棋では、「良手」が「悪手」に変わるってことがあたりまえにある。

だから、なるべくならば、そういう分析や判断をしなくていい立場、なるべく遠く離れた立場に居たいと思うのですが、自分に不都合なことは多々あって、「俺のこっちゃないスイッチ」っていうのは自分の未熟を自覚するってことに使うことになる。

「俺のこっちゃないスイッチ」というのをonにするのは、他者を拒絶するためではなく、冷静に他者を受け入れる態勢ってことなわけで、「無我」ってことでの問題や課題の分析・判断という困難な対応に身を任すってことになるわけで、だから、そこでは「批判」ってことは保留される。

小泉元首相は,
自分の未熟を、「変人」ということで、その範囲で自分を押し通した。菅元首相や枝野元官房長官は、あの大災害で自分の未熟を棚上げして頑張るしかなかったわけで、私の見方では超人的な頑張りだったと思うのだが、それでも批判されてしまうわけで、安倍首相や石原老人、小沢氏や橋下氏のように、自分の未熟を自覚しなくって、元気よく分析・判断をしている人たちを見ると「ありゃりゃ」と投げやりな気分になったりもする。ついでに言えば、原発ムラの人々には怒りさえ感じたりもする。

そんな時は,私はその分析や判断をする立場にないことを自覚しての分析や判断だということになるから、「批判」ではなく、「ありゃりゃ」ということで収まるしかない。
財政再建や防衛や社会福祉の問題が単純にこうすれば解決するってことではないことぐらいわかるし、主張している人々が、未熟な分析で自己満足的な結果を求めているのは明らかだし・・・

私の脳は宇宙の中心に近い周辺に居るってこともポストモダンの「現実」でありますから、脳の中の「現実」では社会の中心の気分になりやすい。
ポストモダンの「現実」ってのは、物理学的にはまだ学会の承認には至っていない「人間原理」ってことや、量子理論で保留された「エヴェレット理論(オックスフォード理論)」ってこともあって、自分でもよくわかっていないんだとは思うのでありますが・・・

それにしても、還暦のこの歳になるまで、自分のことは棚上げして「批判」ばっかりしてきたなぁ〜と我ながら呆れております。
その「批判」の全てが間違っていたとは思わないけど・・・いや、結構核心を突いていたんじゃないかとは・・・若気の至りではありますが・・・

でもやっぱり、病院は患者を治すのではなく患者を作り出す所であるし、国は弱者救済ではなく未熟を自覚しない強者生き残りの政治ってことでしかなく、全てが商品化する資本主義文化なんだし、「ものごとはなるようにしかならない」ってことではあるのだが、「諦め」ではなく、他者と何かを共有できる場や状況は開いておかなくっちゃいけないんだと思いますね。

「楽しいことしかしない」という森巣さんの生き方は、「生きる」ことを楽しむための「できることをコツコツと」の「無我」があってだろう。

そのためにも論理や具体的な行動ではない、漠然とした「共感」のある身近な人間関係を深め広めるというのは欠かせないだろうな。

最近、山崎正和さんや森巣博さんの本を読んで、「哲学」や「消費」や「芸術」という概念の異相に出会って、あらためて環境・状況や人間関係ということでの「自分」ってことのこだわりが氷解してしてきたように思える。
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中途半端

2012/02/11 06:58
中間の落としどころ・・・
対立する、矛盾する中をとっての落としどころ・・・

記憶は脳の中の「現実」で作られる物語だから、「今」という状況・心理でころころ変わる。それに、他者ごとに違う人格という多重人格もあるんだし、同時並行宇宙、無限の「今」と同様、無限の「過去」ということでもある。
時間は流れるのではなく、デジタルな時空間ということだし。

個人の「存在」は、70億の相互依存、「人類」という関係の中でのネットワークだから、身近な「関係」を広め深めなければ、「関係」を拒絶した引きこもりになりやすい。
ネットワークも時空間ではあるんだから、繋がった線があるわけではない。

アフォーダンス対応は身体反応だから、脳の「現実」で意識的に動けば、歩くことさえぎくしゃくしてしまう。もちろん走ったり、飛び撥ねたりはとてもできやしない。

人間関係や人工的な環境、法律やマニュアルだってアフォーダンスということではある。ただし、法律通りに生活することでどうなるのかを考えれば、アフォーダンス対応の根幹は「自然=宇宙」ということなんだから、意図的な動きというのは不都合な結果しか招かないということなんだろう。
「現場」が法令通りに動けば、「順法闘争」というサボタージュになる。

数十万円の研修を受ければ、介護ヘルパーや産業カウンセラーの資格取得というように、「資格」が商品になってしまっている。医者であれば数千万円ということみたいだし。
まっ、今の時代、サブプライムローンみたいに、「貧乏」だって商品になるくらいだから、「商品」にならないものはないということではあるが・・・

それにしても、筆記試験で外科医や産科医を選考するというのは無茶苦茶だと思うのだが、そんな話にはならないから変なのだが、入学が難しく、卒業は楽という大学での資格取得だからもっと変ということでもあるが、「資格」が権威や能力ということになっていることが変じゃないんだろうか。

「継承」ということでの徒弟制度というのは、それなりに意味があったように思える。マニュアルで職人気質は生まれない。
大量生産というものがあって、その一方で日本では、町工場の職人気質の手工業的な技術があってということだったはずなのに。

なんだか何を書きたいのかわからなくなってきた。
最近は同じことの繰り返しのような・・・

内田樹『他者と使者〜ラカンとレヴィナス〜』を読んだ。さっぱりわからないのだが、「独学者」というのが引っ掛かる。
やはり「師」は要るんだな。しかし、どうにも自分の殻が破れない。

一方では、「今」という状態に不満はないということもあるし、それが「悟り」という状態というわけではなく、漠然とまだ先の良い状態もあるのかなという中途半端で、不満はないが満足もしていない。

「欲望」という言葉もよくわからない使い方がされている。
「不満はない」ということであっても、「満足していない」ということであれば、この本の「欲望」というのはあることになる。

「師」が欲望するもの、それが「仰ぎ見るもの」なら、常に「師」からの「遅れ」ということになるんだが、養老さんや橋本治さんが「仰ぎ見るもの」なんてなさそうだ。

マルクスの「共産主義」やフェミニストの「男女共同参画社会」なんてのが、虚構であることは明白で、やっぱり野球のイチローみたいに、アスリートやアーティストたちの仰ぎ見る先のような明白な何かが、政治・経済はもとより、哲学や文学ではありえないということなんだろう。

禅を引用していることでもそうだが、レヴィナスは東洋思想に近いような気がする。加島さんが老子を理解するのに、翻訳された文献からというのは、言葉の論理性で翻訳しているからで、日本語では行間を読むみたいな、「構造」ではなく、それの創り出す空間に有意性があるということになってしまうしなぁ・・・

やっぱり、「遊び」ということに行き着くような・・・
「娯楽」が「芸術」になって飾り物の固体になっていく。

全ては動き、変化する。
時間とアフォーダンス、それが生きるということ。

「今」が未来に繋がっていて、「今を生きる」でしか、望む「未来」はやってこない。
「今を生きる」って結構難しい・・・
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性行為

2012/01/22 15:41
「性欲」の性行為は、他者の身体を使う自慰行為であって、「コミュニケーション」を断ち切る。更に、「射精」は「生殖」であって、機能的には精液を掻き出す形故に、その直後の急速な萎縮が伴うようになっている。

「射精」が「快楽」ということであるのかどうか、自慰行為であれば、いや自慰行為でなくとも快楽は「妄想」の産物であり、それ故に強姦やSM他、「変態」ということになるのではないか。

『秘本世界生玉子』の言わんとするところは、「男は性欲の塊」であり、「射精」は絶対の快楽という意味付け、「女の快楽は淫乱」という倫理観があって、その妄想の世界が男女を地獄へと導くということなんだろうと思う。

21世紀の今、時代は草食系の登場となっている。
「女に性欲は在り、快楽は在る」、一方「男は性欲の塊」というものではなく、女はありえるかもしれないが、男は「誰とでも寝る」ということが、「勃起しなくては」という条件から考えても、あり得るはずもない。

そういう意味で、『秘本世界生玉子』での「男は受け身で女が能動的」というのが正解なんだな。男は勃起して受け入れられないと機能しない。強姦というのは妄想の中だから、機能するわけで、本来の受け入れるというのは、「コミュニケーション」が成立する故のものなんだな。男は受け入れてもらうしかなく、女は拒絶はもちろん、「嫌だ」を保留して受け入れ、その後の選択もできるということ。

「生殖」・「コミュニケーション」・「性欲」に分けて考えればわかりやすいというのが私の持論なのである。
「性欲」の性行為は、「コミュニケーション」を断ち切り、「コミュニケーション」は「性欲」を遠ざけるというのが本来ということであろう。

「性欲」は妄想を膨らませるのだが、「コミュニケーション」においても、「好き・嫌い」のバイアスが妄想となって、70億の相互依存とは切り離された、脳の中の「現実」での妄想世界を膨らませる。その前提は「私は正しい」であるだけに、「関係」は「性欲」の妄想を導き入れる。

『秘本世界生玉子』で、「男の性器は、攻撃的であるが故に受け身とならざるを得ない」というのは、見事な分析といっていい。
「快楽」は「射精」ということなら、「コミュニケーション」を断ち切るわけで、だから「強姦」ということが題材になっている。

「性欲」の妄想で、「いやらしさ」で頭はいっぱいになる充足ということだから、「コミュニケーション」での充足にはなりえない。
「射精」が快楽なら「強姦」がふさわしいわけで、だからこそ強姦映画が社会で意味づけられた「男女」の歪さが浮き彫りになる。

「コミュニケーション」なら、手が触れ合うだけで「興奮」という前時代的な描き方の方が、その男女の高まる思いが伝わってくるんじゃないか。

つまり、ことは「性行為」ということだけでなく、人間関係全般に当てはまりそうだ。
「コミュニケーション」は「欲=エゴ」を遠ざけ、「欲=エゴ」は「コミュニケーション」を断ち切る。「好き・嫌い」のバイアスで、人間関係をややっこしくしない方がいいんじゃないかということも言えるのではないか。

「欲」が物語になって、妄想を膨らませるが、その前提の脳の中の「現実」が「「私は正しい=エゴ」故のややっこしさというポストモダンな問題もある。

更に、思考論理が17世紀で、概念も前時代のものにすぎないというややっこしい課題があって、政治や経済が崩壊している状況で、科学や学問というのが言語の枠組みの中で閉塞している。

周辺から新しいものが生まれるわけで、サブカルチャーは既にメジャーになっていて、新しい周辺は、例えばインドの興隆というものの中に芽生えているような・・・
なにしろ、シバ神の国なんだから、わけがわからない。

話はドンドンわからない方に・・・

なんか変だな・・・
「コミュニケーション」ってのが、そもそも「意味付け」なんじゃないかという疑念もあるな・・・

「生殖」に向かう「性欲」の性行為と、「娯楽」としての性行為という分け方だと、どちらも「コミュニケーション」ってことにもなる。
古の中国やインドでは「いやらしい」がとっても重視されていることあるんだしね。

『秘本世界生玉子』の最後は「遊び」で終わってる。確かにポストモダンでは、「娯楽」がとっても重要なんだろうなぁ〜・・・
「解脱」より「遊び」なんだな・・・

しかし、「遊び」や「娯楽」って・・・
どうにも・・・まだぴんとこないなぁ〜・・・
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生き甲斐

2011/11/19 03:40
どれほどの星々が在るんだろうか?
数億、数兆、数京・・・
いやいや無数のというほうが・・・

その星々の「関係」は?
今まさに燃え尽きんとする星が在り、今まさに生まれようとする星がある。

「星」が一人の人間だとしたら・・・
宇宙は銀河系であり、太陽系であり、地球の生態系であり、人類の社会なんじゃないだろうか?

いやはや、あまりにも突拍子もない・・・
いやまさに、それが私たちの「関係」なのでは?

どんなに親しい間柄でも、私自身が思い通りになんてことはあり得ないし、私自身の存在が全く知らない人にも影響を及ぼしていないということでもない。

70億の相互依存はすでに誰にでも認識できる「関係」でもある。

宇宙の星々は絶妙なバランスで無限の星々が在るわけで、70億の人間、そして無数の生物がいるわけで、その「関係」が、生態系という宇宙と同じ絶妙なバランスなわけだ。
それを生物の多様性というわけだ。

100万都市仙台では、市職員が7月まで寝袋持参で不眠不休の働きぶりで、それはそれなりの充実した仕事ではあったんだろうが、限界を超えたものが自殺ということになって、8月に泊まり込みは止め、週一日は休むローテーションにしようということを全員で確認したという。

自殺者は10月末ですでに10人以上二けたに至っている。

津波による悲惨な状況は、既に広大な面積に集められたがれき集積場、土台の基礎だけが残る墓場のような家々の跡ということでしかない。

がれきの山で、防塵マスクをつけて作業というのが、アスベスト他の有害物質があるためと説明があって、まだまだ問題は山積とは思うんだが、さらに、震度4以上の地震は200回以上、トルコのホテルが壊れたM5以上は500回ということで、まだまだ災害は続いているわけで、罹災証明は今でも20万件、当初20人体制から今では、全国からの応援もあって100人体制で、発行に二か月もかかる。

仮設は千数百世帯、多くは公営、民営賃貸住宅8千世帯で、その対応は福祉関係ばかりではなく、市役所全体に及ぶ。

それを説明してくれた職員達も、8月時点で話し合った時に限界を超えていたんだと自覚したんだそうだ。
そして、祝日出勤、土日振り分けての週一日休日という状況で、「ちょっとやばいかな」と思う日もあると誰もが感じているとのこと。

「生きがい」ってなんなんだろう?
彼らは嫌がっているわけではない。頑張って、生き生き働いて、それが限界を超えてしまうということなのだ。

早朝スーパーの仕事が終わっての充実感ということと同じなのだ。
「働く」ということは、そういうことで、その中身や役割や貢献度なんて言うことは関係ない。

ただ、「お金がほしいから」という「お金=依存する権利」だとすると、自己中心の子どもってことで、ちょっとひきこもっちゃうかなというだけのこと。

個人が他者に影響を及ぼす程度の違いはあるが、相互依存ということに違いはない。
「相互」ということが、宇宙の絶妙なバランスということだし、生物の多様性だし、人間関係ということなんだろう。

好き嫌いはバイアスに過ぎないんだけど、「嫌いな」あるいは「苦手な」他者ではなく、気持ちが伝わる相手との関係を広め深めれば、70億の相互依存は認識できてくるんだろう。

好き嫌いは振幅で、ころころ変わっていくもんだし、振幅がないってことはひきこもりでしかないわけで、「愛」なんて言うわけのわからないもんじゃなく、「友情」っていうわけのわからない振幅でもなく、「こいつ良い奴やなぁ〜」や「嫌な奴やなぁ〜」でいいんじゃないだろうか。

やはり、東日本大震災は何かの転換点なんだと痛感したんだが・・・
「日常」というのは、よどんだ空気に思いがちみたい・・・
「なんにもできないなぁ〜」というのがあたりまえではあるんだけれど・・・
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「ハングリーであれ、愚か者であれ」

2011/11/03 10:33
もういい加減、「現実」というアフォーダンスに馴染んでも良いはずなんだけど、脳の認識する過去の概念という「物語」がなかなかしぶとくある。

またそれとは違う、物語ではない、あやふやで不明確なんけど、なんとなく直感でわかる、宇宙の中心からは外れている「現実」というのがある。

どうでも良いというわけではないが、「自分」という物語はあって、多くの未熟が暖められたままになっている。

問題や課題、矛盾というものを抱えていないシステムなど無い。それは人間の未熟、社会の未熟でもあるが、まずは「自分」の未熟なんだなぁ〜・・・
とんでもなく飛躍したものの見方のようにも思えるが、だから全てはアフォーダンスということにもなってんだけど・・・

古い概念で認識し、分析するから矛盾なんだけど、アフォーダンスということであれば、「過程」だし、「変化」ということでしかない。だから「直感」・・・

「また、わけのわかんないことを」なんだけど、スタンフォード大学卒業式でのスティーブ・ジョブズスピーチを観た。
観て、「直感」という言葉が浮かんだ。「身体思考」ということではないだろうか・・・

「点から点に繋がるんだけど、繋がる結果は後から」、失敗や喪失など災難だと思っていたことが「だからこその今」ということに、そして話題になった「ハングリーであれ、愚か者であれ」の3つ。
といっても、前の2つは勝手に私が「そうなんだぁ〜」と思った解釈なんだけど・・・

話題になっていた頃は、なんだか観る気がしなくて、今頃になって観て、衝撃的な「感動」でした。
村上春樹カタルーニャ国際賞スピーチとはまた違った「感動」でした。あたりまえといえばあたりまえだが・・・

なんで観る気がしなかったのだろう?
よくわからない・・・

「ハングリーであれ。愚か者であれ」ばかりが取り上げられ、話題になって、でもその時は、彼は「あたりまえのことをあたりまえに言っているんだろなぁ〜」と思った。

動画を観て、最初の2つを聴いて(字幕だから観て)、最後の3つ目の「ハングリーであれ。愚か者であれ」、の意味が、私の解釈が変わった。

どう変わったのか?
よくわからない・・・

翻訳の文字で読んで、彼は言葉では伝えられないことも伝えているということを感じた。これも「直感」だろうか、たぶんそうだろう・・・

行間に意味がある。スピーチで、例えばと例を出したフォントのこと、それは一つの例で、「点から点に繋がる」ということ。
「それは後から意味があることになる」という例なんだが、もっと多くの出来事はあって、伝えたいことはそのエピソード一つで伝わることではない。

アップルを追い出されたことや癌になったことも、数多のエピソードの一つであって、「死あるいはゼロである原点を意識した方が良い」ということだけじゃない。
ほんとに伝えたいことは、言葉だけでは伝わらない。

そんなことが、スピーチを聴いて伝わってくる。文字の行間にあることが読み込めてくる。

村上春樹スピーチは優れた物語になっていて、行間を読む必要はない。そのまま物語に溶け込んでいけば良い。
でもジョブズスピーチは翻訳文字が出て、聴くことと観ることが同時にできた。英語はあまりわからないが、単語はそれなりに入ってくる。

私の勝手な解釈で、その時はわからなかったが、つじつまを合わせるとそうなるのかなぁっていうことに過ぎないんだけど・・・

ジョブズ氏は好きなことを見つけろと言っているわけではない。
「できることをコツコツと」ではあるが、「コツコツと」は「好きじゃないと、ゼロの原点に立ち返らないとやっていけないよ」ということなんじゃないだろうか。

「好き」じゃなくとも、日本人なら「地道に」というのは根付いているのではないだろうか。
すくなくとも私の周囲の若い人たちは、多くはアーティスト達なんだけど、ゼロに立ち返り、「まだまだです」と地道にやっている。「地道」が「楽しく」になっている。

養老孟司『ぼちぼち結論』
自分の考えを表現することがいかにむずかしいか、よくわかる。人は一直線にものを考えるのではない。一直線に考えたように表現するのである。さもなければ、話が面倒になって、相手に伝わらない。しかし本当は一直線には考えていないのだから、どうしたってウソが入る。

それって、「先を読んで点と点がつながるわけではない」ってこともつながって、
「ハングリー」は「ゼロの原点」、「馬鹿」は「先を読まない」ってことなんだと私は解釈したみたい。

「失敗や災難は後になれば、それも吉ということになる」ってことと、「できることをコツコツと」の地道ということのどちらも、「関係」ということがあってこそということがあるんだと思う。

「お金のために働く」ということであれば、「関係」ということが拒絶されている。
「役に立つ」ということも、後の結果からで、多くはお節介や迷惑なのかもしれないんだし。

やはり、先を読んで「ああすればこうなる」でやってくよりは、「できることをコツコツと」の地道がなによりってことじゃないだろうか。
その「地道」が身について来れば、「まだまだです」の「楽しく」という実感にもなっていくんだろう。
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「金曜日」の「現実」

2011/10/30 09:10
カダフィ大佐が死んでも、「ジャスミン革命」あるいは「アラブの春」はまだ終わりではないみたいだ。カリスマや独裁という時代ではなくなっているんだな。

次々と独裁政権が崩壊していくきっかけが、あまり政治的ではない人の集まり、抗議デモということみたい。
今までの反政府運動というのとはちょっと違うようだ。

「反原発」ではなく、「脱原発」で良いんじゃないだろうか。
「絶対にダメ」でもなく、「こんくらいなら良いんじゃないの」という許容でもない。

相変わらずの円高は、ユーロやドルが低迷しているからみたい。資本主義は終わっているんだな。拡大再生産しかないシステムがそんなに長く続くわけがない。
格差はなくなっていくしかないし、それはみんな貧乏になるってことなんだと思うな。

「自分だけは」というのではなく、「自分の脳」が認識している世界ということ。中華思想になるのも変でしょう。
「辺境」ということでもないし、太陽と地球、銀河系の中での太陽系のポジションってことじゃないかな。

やはり、東日本大震災、それに伴う福島原発事故というのは、なにかの転換点だと思える。日本人だけのことではなく・・・

しかし、今の自分は、降りしきる雨を部屋から眺める、平穏な生活の有難さってことなんだな。
こんな時に昔のことがふっと蘇ったりするもんだ。

この30年余りいろいろあって、そこそこ社会に関わってきたんだが、想い出すのは失敗ばかり、後悔を伴うことばかり、佇んで過去を振り返るってあまりよろしいことではないみたい。

「今」ということではそれほど不満もないのだが、過去を振り返るとみっともない「自分」だったりで、「今」がそれほど居心地良いものではなくなる。

かといって、未来を考えても、今の材料で輝く未来や豊かな未来が描けるものではない。今の未熟や混乱がどう改善し安定するのかわかるはずもない。

相変わらず、政治や経済、文化さえも行き詰っているようにしか思えない。
すべてのシステムには問題があり、このまま維持できるとは思えないし、それに代わる新たなものは未知でしかない。

明確な根拠ということに疑問を持っている。アバウトな直感をいかに具体化して膨らませるか。そして、膨らませた概念を整理し関連付ける。説明するとそういう表現になる。
なんだかよくわからない説明ではある。

論理的な推理・分析は、論理の枠を超えられない。物事の本質は、枠組みの外にまで及んでいる。枠組みだけでは収まらないから「本質」だともいえる。

例えば「仕事」、その目的や役割、効果や成果等々とは別に、全体あるいは細部との関連ということになると、誰もわかっているわけではないってことになっちゃっている。

法令も社会生活でのアフォーダンスではあるんだが、子ども手当で税法その他の関連もあって、そう簡単には廃止できなかったように、もとより解釈、つまり現実の適用ということでいろいろあって、学者、行政あるいは政治家など、それぞれ見解が違うということもあたりまえにあるのだからややっこしい。

それぞれ判断が違うだけでなく、関係者で違う反応ということもあたりまえにあるし、
なんといっても、ポストモダンの「仕事」というのが、誰の役に立っているのかよくわからないという性質のものになっているややっこしさはどうにもなりません。

日本ハムのドラフト指名が人権蹂躙なんていう独善は、脳の中の「現実」ということの社会化で、宇宙を認識する脳がその宇宙の中心という勘違いで、リーダーがまずそんなだから、小沢さんというのもいろいろ問題になるはずでしょう。

立場・役割があやふやになって、「自立」が孤立になる時代でもあって、「関係」は67億の相互依存になっている。いやはや大変な時代でもある。

一昨日、ギガの公演を観たのだが、「観る」というより、降霊会や燃えた生家の前や峠での夜明けという状況設定に臨場してたという感じがあって、内容はよくわかんなかったけど、ドキドキわくわく結構楽しめた。

役者のキャラクターをわかっていての楽しみ方というのもあったみたいなんだけど、わけがわからない状況にいて、なんだか非日常という感じがしなかった。
それは、「現実」というものそのものが、「わけがわからない」ってもんじゃないのかということ。

よく知っている役者が、全く違う人間になっていて、舞台設定も非日常なんだけど、ポストモダンの今は、「日常」ということが、明確な「関係」や環境が固定されているわけではないんだな。千年に一度の津波、5千年に一度のはずだった原発事故が起きちゃうんだから。

「親子」や「男女」という「関係」でさえ、すでに「関係」ということでしか表現できない、「家」や「家族」という枠組みが壊れている今の時代(ポストモダン)は、明確な言葉で規定できる「関係」なんて無いし、言葉そのものの枠組みが崩壊しているわけで、そうであれば、「金曜日」の会場そのものが「現実」を描き出していたのかもしれない。

ポストモダンの哲学は、「脱構築」でもあったんだし・・・
今考えれば、一昨日の演劇には奇妙な楽しさを感じたのだが、ポストモダンの「関係」の本質というのがあったのかもしれない・・・
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貧乏と豊かさ

2011/10/22 09:38
内山節『文明の災禍』を読んだ。東日本大震災の哲学者の立場での分析だが、メルロ・ポンティの引用や「身体の意識」ということで、アフォーダンス理論の河野哲也さんと繋がる。

1980年毎日新聞社の哲学シリーズの内山節『存在からの哲学』で、胡散臭いと思っていた「哲学」に興味を持った。
ウッキペディアでは、「高校卒業後、大学などの高等教育機関を経ることなく、書籍などで自らの思想を発表しながら活動する哲学する人で知られている。」とある。

私がまだ際どく20代だった頃に読んだように思う。
内容はほとんど覚えていないし、今読んでその時の新鮮さは多分感じないだろうが、学者の本とは異質何かがあったような。

今、あらためて橋本治『貧乏は正しい〜ぼくらの東京物語〜』を読んでいる。
河野哲也『意識は実在しない』と出会い、内山節『文明の災禍』に出会い、アフォーダンス理論というのが定着するんだろうなと感じて、阪神大震災や細川政権誕生後に書かれた、橋本治『貧乏は正しい〜僕らの最終戦争〜』を読み直し、イナカとトカイを題材に、地方分権や地方の独立の時代に「中央」という考え方はありえないという展開は、なんだか東日本大震災や維新の会などの躍進と地方分権4法の成立などという「今」に奇妙に符合しているような・・・

『貧乏は正しい』は一貫して、「自分の頭で考える」ということが許される「豊かさ」ということを、それは「お金」の豊かさとは全く違うものだということが書かれていて、「他者との距離の取り方」ということで、他者との関係の「豊かさ」は、「貧乏」の共有があってこそという逆説になっている。

私の解釈では、「要らないものは要らない」、「中央集権ピラミッドから67億の相互依存ネットワーク」、「脳の中の現実からアフォーダンス対応」、「全てがあやふやで不明確、唯一明確なのは関係の中での自分の未熟」、「基本はできない、わからない、知らない」などということに結びつくようなこと。
だからどうだということもないが・・・

ただ、「出会うべくして」、「なるべくして」ということと、「なるようになる」ってことではあるんだろう。

九電社長は留任で、東電幹部も原子力委員会トップも変わっていない。あれだけ金がばらまかれていれば、そりゃあ盤石ということなんだろうか。国民をばかにしたお話ではある。
原発推進の国策の中心だった自民党というのも同じということか。

社会は大きく変わっているのだが、政官財は変わっていないような、システムは崩壊しているように見えて、機能はしているように思えてしまう。
全て閉塞状況なのに、平穏は続いているような、このギャップは埋まるのだろうか?

アフォーダンス理論を受け入れれば、環境・状況対応ということだから、当然「保守的」が基本ということではある。
ただし、「なるようになる」ということが保守的とは言えないというややっこしさはあるんだな。

「自分の頭(身体)で考える」という「豊かさ」があって、「自分の未熟を何とかする」という変化があって、未来を選択するという「なるようになる」ということも・・・

「他者と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる」というのが「現実」であって、それが逆転しちゃうのが「脳の中の現実」っていうややっこしさもあるな。

行動というのは、順応する対応ではあっても、変化ということが伴うものなんだな。思いや考えで何かが変わったりはしないもんだ。

若いってことは、年齢に関係なく、身が軽いってことなんだろうか・・・
ちょっと違うような気がするが・・・
『貧乏は正しい』は奥が深い。
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