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村上春樹ワールドには、ある種の「健全」があって、それは個人的な「健全」と時代性の「健全」で、その対比が「正しさ」といういかがわしいものを浮き彫りにする。 時代の「健全」は、システムを作る側の「野心・嫉妬心」を充足させる「健全」でしかない。 民主主義になって、支配者や権力というものが、「システムを作る側」という言い方になっただけで、個人的な既得権擁護のシステムという性格になってきただけのこと。 政治家、経済界、官僚みたいに、組織・個人の利害しか考えられないちっぽけな脳の思考であり、志向でしかない。 個人の脳に「現実」であって、その個人が世界総体はもちろん、小さな組織の総体さえも認識できない時代になっている。 だから、個人の「正しい」や「健全」は、「野心・嫉妬」ということにしかならない。 他者を自分の思い通りにの「野心」、思い通りにならないからの「嫉妬」ということに。 未来は選択ではなく、受け入れるしかないもので、その受け入れ方で、受け入れる未来が変わってくるだけのこと。 「野心・嫉妬」は、「嫌だ」でもあって、未来を、「関係」を拒絶することになってしまう。 「野心」は小沢さんのように、「嫉妬」は秋葉原事件の自殺願望者みたいに。 そこで、個人の「健全」は時代の「健全」の制約があって、「嫌だ」を封印することになりやすい。 封印された「嫌だ」は裏になって、表の「健全」との表裏一体とはならず分離する。 状況や「関係」に対しての感情で、見方・考え方はころころ変わる。 それで、「健全」と「嫌だ」が、ころころ入れ替わることになる。 でも、「私は変わらない」や「私はだ正しい」がそのままであれば、表と裏の両極に人格が分離する。 両極は分離し、その入れ代りの変化は表層で、中は空洞になる。 その空洞の真ん中が「普通」ということになって、「理想」ということにもなる。 格差で、中流が無くなって、「要るものは要る」で、「際限なく要る」のセレブと「必要最低限は要る」の貧困が両極になって、「要らないものは要らない」が真ん中、普通の「理想」になるみたいな。 善悪も、いじめや差別で、いじめる・いじめられる、差別・被差別の両極があって、その立場は状況・環境や「関係」で入れ代る。 そして、善悪の状況には「関係無い」が「普通」ということに。 でも、そんな「普通」は無いから、それは「理想」となる。 「自分」が楽しく安らぐ真ん中50、そんな真ん中が「普通」で、それが「理想」になって、普通でない表層の両極の変化、入れ代りで、「自分」は透明化するしかない。 「普通」は、両極が打ち消しあっているからの真ん中だから、「無」や「空」でもあるが、真空から、電子と陽電子が飛び出すように、「無」が何も無い、「空」が空っぽということではないようだ。 村上春樹ワールドの主人公やその時代性の「健全」の他に、著者の「健全」があって、エルサレムの演説やアンダーグラウンドのノンフィクションなんかに繋がっている。 そして、物語の中では、個人的や時代性の「健全」が、「暴力」や「卑猥」を招き寄せる。 ところが、著者の「健全」は、「普通」でもあって、政治や思想とは無縁であって、穏やかにさりげなく、しかし確固として揺るぎない。 それが、正しいかどうかはどうでもいいようなさりげなくであり、だからこその揺るぎの無さでもある。 |
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