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<<   作成日時 : 2010/03/21 11:51   >>

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街は人人人なんだが、その人々とは何らかの繋がりはあるわけで、でも全くそんなことを感じないわけで、なんだか不思議。

こんなことを不思議がる私は「変人」と言われているが、個々人の脳に「現実」ということでは、人それぞれの「現実」になっていて、夫々違うわけで、「普遍的」というのが無いわけで、みんな誰も他者は「変人」じゃないんだろうか。

他人は他人でどうでも良いこと思ってしまうが、どこかで繋がっているのだから、「関係」はあるわけで、やはり他者に対しては謙虚で誠実である方が良いんだろうと思ってはみるが、そんな意識的な自分を作っては肩が凝りそうで、結局自分は自分でしかないと開き直ってしまう。

それでも、自分の未熟はなんとかしなくてはの自覚はあって、でも何ともできないジレンマはあって、それなりに未熟そのものは、それなりの自分らしさでもあって、なんとかしなくてはということと仕方ないんだけどなということでの行ったり来たりの堂々巡り。

人間、自分に都合の良いようにしか考えないもんだなと思ってしまいますね。
「関係」というのも、真ん中50があって、アフォーダンス対応なわけで、意図的に相手がどうこうと想定しても空回りするだけ。

しかし、希望や期待や望みという形の他者はどうあるべきは在って、自分の思い通りが加われば、「飲酒運転撲滅」なんていう「正義」のキャンペーンになったりする。

犯罪は無くならないわけで、それは社会や人間の未熟でもあって、法律というのでなんとかならない「現実」ということで、それが「コンプライアンス」なんていうカタカナ言葉でなんだかなんとかしなくっちゃで、強迫神経症的に「正義」や「真実」が振りかざされる。

個々人の脳の中の「現実」の「正義・真実」というのが、普遍的であるわけもなく、法令を作る人は、普遍的な「正しい」がないわけで、自分あるいは自分達(組織や血縁関係など)の権利擁護がまず優先されるということになる。

「要らないものは要らない」という前提、「できることをコツコツと」でアフォーダンスに対応する身体ということ、そのための真ん中50のスキルを身につけるという、結構難しい前提をそろえなければ、社会の中で「今を生きる」で、引きこもりや強迫神経症から逃れられないのかもしれない。

とりあえずは、身近な人間関係での「無条件OK」でありうる「関係」、あるいは個人の価値観や利害関係が意味を持ちえない場やネットワークの形成というのが重要なんだろうと思いますね。

65億の相互依存関係は既に在って、日本に住んでいる1億数千万人は何らかの繋がりは過去・現在で65億人よりは具体的に在るわけで、福岡市130万人ならもっと具体的なはず。

脳の中の「現実」での「今を生きる」は、悲惨なことにしかならないと思いますね。
「関係」の中でしか、自分の未熟は明確にならないし、自分は「関係」の中でしか、「現実」というアフォーダンスに対応できない。

脳の中の「現実」では「私は正しい」が前提で、その「正しい」は「できない、わからない、知らない」という「現実」の中では、ちっぽけな個人の「正しさ」でしかないわけで、そんな個人の判断での「ああすればこうなる」では、ややっこしいことにしかならない。

社会に規範は必要なのだが、その「規範」は神にしか創れないわけで、脳の中の「現実」では「私は正しい」が前提ということは、その人が神様にもなりえるわけで、今では「自分は神」という人は結構な数いて事件が起こったりしています。
通常は「神」ではなく、「預言者」や「神の子」、教祖や師範という人間が「神」の代わりになっているから、「神」ではないから、そういう人はゴロゴロいたりするんじゃないでしょうか。

昔の王様と大統領や首相はどう違うのか、自分のためか国民のためかの違いということになっているが、結局は階級や血縁の利害関係優先から官僚組織の利害関係、政党や経済界の利害関係と変わってきて、今ではそれらが相互依存的になってきて、利害関係の調整ができにくくなって、人類的な環境問題、国の財政問題やデフレなどの政治・経済問題などが政権交代みたいな人類や国民レベルでの問題ということになってきているだけのことだろう。

結局は、リーダーや官僚制みたいな個人や組織で多数を支配することはできない民主主義ということなんだろう。
ただし、未熟や問題はあって、その対応が可能なほどには「民主主義」が具体的になっていないということはあるだろうな。

突然、「絶対王政」や「帝国主義」や「資本主義」が成立したわけではないんだから。
20世紀に「民主主義」は未だ形になっていない。未だ植民地だってあるくらいだし、部族・民族戦争だってあるくらいで19世紀以前の生活の国の方が多いんじゃないだろうか。 

ことは「人類・国」なんていうところまで広がっているから、わかり難いかもしれないが、やまなかっちさんと某社会教育施設職員とのごたごたは、互いに法令に基づいての「私は正しい」だからややっこしくなっている。
「コンプライアンス」で、事務手続きのミスを糾弾するわけで、結局は私怨というだけのこと。ややっこしいのは、やまなかっちは「私怨」を自覚していて、相手はそうではないから、やまなかちの「私怨」は更に深まるということになっている。

「私は正しい」で他者や社会を批判して、引きこもりや強迫神経症になるよりは、「できることをコツコツと」で、身近な人間関係をより良く築いていくことの方が建設的ということなんじゃないだろうか、迷いはないし。

「関係」の中で明確になる、自分の未熟を「なんとかする」が課題の21世紀なんだと思いますね。
直ぐに何とかなるもんじゃないからね、自分の未熟は。

こんな指摘を他者にするもんじゃないことは、自ら書いていることだけど、今日の朝日新聞朝刊「仕事力」での押井守の指摘「30歳までの社会人(自分のスキルで世間を渡っていける人)自立説」にうなずく人でも、自分の未熟の指摘には、即座に「そうは思わない」、「そんな風には感じない」など、「私は正しい」の反応(反発・拒絶)で応えてしまう人が多いから、あらためてポストモダンは会話が成立し難い時代だなぁ〜と感じている。

大袈裟ではなく、「私は正しい」は、「私」が家族や仲間や組織や階級に代って「私的」でなくなったりすれば権力構造なんだが、民主主義の時代で「私」が預言者や宣教師や僧侶や王様になったりするんだから、間違いなく強迫神経症、以前は誇大妄想狂の入り口に足を踏み入れていることは間違いない。

主張は、「私は正しい」であって、論理や根拠をあやふやにすると、自分の未熟を隠してしまう。詐欺師はその論理や根拠のすり替えをしているだけのこと。
「正しく」主張することで、まずはその主張することでの自分の未熟さを認識する方が、自分の安らぎになるんだと思います。

できるだけ主張は控えたい、そんな気分の私の現状であります。
21世紀の会話は、井戸端会議のしゃべりっぱなしか「なにそれ・わかんない・あっそう」の返事しかないような。
交渉や論議は自分の未熟や問題は隠して、相手の未熟や問題を指摘する仕組みになっているし。

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