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考えているようで考えていない。「本を読む」は「自分を消す」で、素通りしない驚きの連続にもなる。橋本治著『ああでもなくこうでもなく』シリーズを読んでいる。時評といいながら、こんな見方、考え方があるのかということばかりで、その根拠が時評部分より長かったりする。 「そうなんだぁ〜」ばかりで、自分が無いから、日常でも何も考えていない状態になっている。イスラエル・ガザ地区の悲惨が、「何でこうなっているんだろう?」ではなく、「ホロコーストの経験がどうなっちゃたんだろうな」で止まっている。それがいつしか、「今でも人間じゃないの魔女裁判はあるんだ」になる。魔女の疑惑の種はいくらでもある。魔女がテロリストとに代わっただけのことみたいな。 主張は「私は正しい」なんだし、「考える」は、優位性となる。「自分の頭で考える」が必要な時代ではあるが、その「頭」は身体で、「考える」が他者の論理を受け入れて、「そうなんだぁ〜」が身体に残って、身体に「?」が出てきて、新たな「そうなんだぁ〜」になる。 「身体が頭が良い」ということはそういうことなんだろう。意識の記憶を消して、身体の記憶にしてしまう。身体の記憶はアフォーダンスに繋がっている。意識が動かなければ、身体の記憶が環境・状況に対応する。意識は「できることをコツコツと」だけで良いみたい。 ものぐさな自分は、バカで何のとりえもないのだが、その身体は個性というものだから、その馬鹿さ加減が個性になっている。優位性ではなく、馬鹿さ加減というのが本来の個性ということでもあるみたい。 「バカ」は絶対評価で人間の本質。それ故、「知性」はその時代の少数の他者には「わからない」ものでしかない。それで、「無知の知」のソクラテスは死刑になったんだし、それは言葉にすれば「変」ということでしかない、「わからない」ということだから。それが、「わけがわからないことを言う」で「バカ」としか表現されないものになっている。「知性」が有ると無いが同じ「バカ」になっている。 過去をすべて否定しても仕方が無い。歴史を通して残された蓄積というものがあるはずなのだ。生産・流通・消費の経済、人々の繋がりが社会の政治ではあるが、出産・育児、労働、情報のネットワーク、親子と男女の「関係」というプライベートな事柄だったものが、人類ということとどう結びつくのか? 単純に言えば、女であり母であり娘、男であり父であり息子であることが矛盾しない社会というのがありうるのかということではないか? 宗教が、民族が違うみたいな相違は社会の未熟ということでしかないような気がする。個人が総体を認識することは不可能で、政治がシステムを維持管理する未熟ということにもなるのでは。 信用は「相互依存」の認識だし、現場は職人と見習いの世界でいいんじゃないかと。だから、どんな社会なんだと言われても、「私に聞かれても」としか言いようがないが。 前近代で育児は共同体的なものだった。60年代まで、子守は子どもたちの世界で請け負われていた。その昔は乳母(うば)というのもいたんだし。 自分の子どもが年をとるだけ、その年代が自分には子どもでしかない年齢になる。それは、父であるというプライベートな長い年月の「関係」ということがあっての、「親子」という普遍になっているから。 ロリコンというフェチズムはあって、それは父性というより性倒錯にすぎないもの。前近代的な感覚であろうが、それは年月とともに親子として、父としての物語になっている。 物語だから虚構ではある。「男らしさ」の「らしさ」を無くしてしまえば、役割・立場という虚構の枠組みも崩壊して、「らしさ」で内実が問われない虚構が、実質の役割・立場で背負うことになる。「父であることの実質」というのがあるはずもない。前近代的といって、その物語を無くしてしまえば、枠組みが無くなるだけでなく、個人と他者の関係さえもあやふやになる。自分だって何だかわからないものでしかない。「友達親子」でもいいのだが、父性というものが無ければ、何だかわからない友情でしかない。父性には責任というなんだか重たいものが含まれているはずなのだ。 男女の「らしさ」を無視すれば、「夫婦」というのは何だかわからないものでしかない。家事や育児という男女ペアーで発生する事象が、社会的な普遍なんてことにはならない。育児が集団保育になったとしても、父性・母性を消滅させるわけではない。 父母としての育児が、父性・母性を育てるのであって、生殖が父性・母性を芽生えさせるわけではない。前時代の男社会では、父であり男であることはあたりまえのことで、母であり女であることはあり得ないことという矛盾が、男女平等となれば、どちらもあり得ないことになってしまう矛盾になっただけのことではないか?あり得るから、父母ではない男女のままで、「幼児虐待」なんてことにもなったりする。 夫婦が社会的な関係、「法律上の」ということになれば、離婚訴訟ということにしかならない。これまた、男女の問題であって、父母ということでは親権訴訟という本来押し付けあいでしかなかったものの権利訴訟という変なことになってしまう。以前には、蒸発という社会事象もあったのだから、「虐待」か「親権訴訟」かの二者択一しかなくなっている。 父性・母性同様に、職人気質と徒弟制度というものを、「前近代的だから」で無くしてもいいのかどうか? 基準や目的、方向性というものが明確に示される時代ではない、すべてが相対的なものでしかないポストモダンでは、架空の師という師弟関係が設定されないと、自分勝手な基準でのモラトリアム的自己満足、つまり引きこもり、聴衆がいないストリートミュージシャンになってしまう。依存を拒絶して、「自立」が「孤立」にしかならないということにもなる。 既に「相互依存」の関係であって、それを受け入れるか拒絶するかの二者択一で、拒絶が一方的な「依存」になって、それを自覚できない子どもばかりが増えてくる。 「陰」と「陽」という両極であるものが、東洋では「陰陽」で一つの世界で表される。人間関係で、性や優位性ということを排除すれば、親しいという関係は「友人」と表現されるもの。性や優位性が入るから「恋人」なんていうもっと親しい関係があるように思うのだが、「恋」は自分が消えているわけで、「関係」ということになりえない。 友達親子でいいのだが、「父の権威」や「母の包容力」などという本来の父性・母性では無いものになってしまう。立場・役割というものは自分を消していないと「らしく」にはならない。 育児にかかわれば、親の自覚は出てきて、それが父性・母性という性別の違いが出てくるもので、親子の関係ということで性や優位性があるわけではない。あるとしたら、それが社会の枠組みが規定するもので、20年以上という育児の期間というものがあるが故のこと。義務として在るから、性や優位性というものが入り込む。 私の父性は、前近代的なものだろうが、架空の師と同様に、それで親子の距離や子どもの年代の時代性を自分なりに受け止められるのだから、自分の未熟さと社会の未熟さまでもが明確になってくるのだから、とりあえずの基準ということにはなっている。 人類であっても、男女と親子という違いは遺伝子として在るわけで、人類の相互依存が「友人関係」であったとして、男女、親子での「友人関係」とは少し違っていることになって、違うとしたら「依存」の中身ということになる。生殖、育児ということでは、それは明確になっている。 「依存」を受け入れることは、自分を消すことで、自分を消しても、受け入れた相手が自分に依存しているという「相互依存」でもあるわけで、「依存されている」ということで、「自分」が明確になったりもする。 職人気質は「職人」と「見習」の両極在って、見習はいつかは職人になる。徒弟制度は師と弟子があって、弟子の中から師が出てくる。商人の奉公人でも、のれん分けということもあるわけで、職人気質の徒弟制という枠組みになっている。その上、衣食住は満たされていて、小遣いもらっての「娯楽」だってあったわけで、時代と共に師弟や主従が逆転することもあったりもする。 師や主人に成長が無ければ、時代に取り残されるわけで、コンピューターの時代は、簡単に師弟関係が入れ替わる時代でもある。個々人の脳に「現実」ということになれば、「師」は架空の設定が必要で、今まで師であったものは、コーチやインストラクターでしかなくなっている。コーチが提示する目標は具体的だが、成長の先の目指すものは、「できること」をやっていての「できないこと」ということという漠然としたものでしかないのだから。 宗教や民族の違いで戦争は未だに在るのだが、「宗教」、「民族」という言葉がすでに一人ひとり微妙にその意味が違ってきている。ガザにテロリストなるものがいるとは思えない。イスラエル側が、魔女だと断定するテロリストなるものはいるのだろうが。 親子は育児をとして父性・母性を形成するもので、父性・母性が誰にでも備わっている本来の人間性というのは、「神の愛」みたいな宗教的な信仰か世間みたいな共同体の枠組みの中のことに過ぎない。 基準や目標が与えられるものであった前時代への憧れは、明確な何かを求める不安な個人の孤立でしかない。「関係」の中に自分が在る、「関係」でしか自分は明確にならない。 |
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