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help リーダーに追加 RSS 「自分」を表現する

<<   作成日時 : 2008/11/09 07:24   >>

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アーティストやアスリートは「自分」を表現する、それがあたりまえの時代だが、それが可能になったのはそれほど古いことではない。自分の好きなものを描けるようになった印象派は19世紀後半で、アスリート個人が専属契約できるようになったのは、20世紀後半ぐらいの新しさ。

音楽ではプロデューサー次第ということもあるし、音楽に限らず、「自分」というものが大衆に受け入れられる別のキャラクターになっていないとも限らない。人間個人は多様な変化する内実というのもあるわけで、情報化される「自分」が、多様な変化する自分を更に変化させるということもある。
それは、「関係」ということでの自分の変化でもあり、環境状況で個人は多様に変化してしまうということでもある。変化しないとすれば、それは引きこもっているわけで、変化するまでもない未熟や変化に耐えられないというだけのこと。

現実は、変化する自分と、情報化した固定した自分というものが在る。変化する方は、循環変化で、分子は入れ替わっても「私は私」という変わらない私という変化もある。変化はするが、こちらは、情報化する自分と同じで、変わらない私になる。「自分」ということの認識は情報化したものだから、変化する自分ということにはならない。

脚本は情報で、役柄も情報化されているが、演出という「関係」の中での役柄の設定は、情報ではなく実態として在るので、役柄も変化してしまう。そして、「演ずる」は、毎回違う変化であるから、表現が定まっていないのかというと、それなりに演劇としては、批評ということで情報化されてしまう。ただし、批評は様々で、批評する個人で多様に変化する。違う批評ではあるが、それが悲劇や喜劇などのカテゴリーでは、明確に分けることができる。

分類は批評ではない。しかし、ここにもポストモダンは顔を出す。批評が成立しないということについても、分類が成立しないことでも、それなりに分析されていて、同じようなことみたいだが、批評が社会をリードするという要素、分類が社会を規定するという要素、という様にまるで違う。ポストモダンでは、どちらも成立しないのだが、分類が成立しないということの方がややこしいみたい。分類の境界はあやふやで、その境界では、水が気体になったり固体になったりの「創発」などという、突然の変化もあるというように。

論理も突き詰めていけば、あやふやになってしまうということで、分類と同じようなもの。情報化することは、視覚化することで、物語にできること。物語は方程式であったりもするが、情報が視覚化したものともいえる。粒子は視覚化したもので、量子理論は物語と置き換えても良い。だから、ヒモ理論がマンガで説明できたりもする。しかし、実態はエネルギーの物質化という変化だから、言葉で説明できるものではない。

なんでこんな説明をしているのだろう?
「自分を表現する」は、表現する主体の個人に物語があるのではなく、その時代や社会の物語に基づいての表現ということ。つまり、自分を表現しているつもりでも、社会の中の「関係」というものに規定された物語なわけで、それを表現する個人が認識、意識することができないということ。幼児が何かを求める表現というようなものではない。「やりたいこと、してほしいこと」や「あれ買って、これ買って」というような欲求や好き嫌いは「自分を表現する」ということにはカウントされない。
「歌いたいから歌った」だけでは、ストレスの解消にはなるかもしれないが、感動にはならないし、表現でも無い。「歌いたい」や「歌うこと」に前提や、個人の存在や「関係」というものが関連しているから、表現というものになってくる。

「主張する」ということを論理的なものに限れば、それは「私は正しい」ってことになる。しかし、身近な「関係」の中での矛盾や問題、その「関係」の大枠の社会の矛盾や問題ということでの主張ということなら、「自分」はとりあえず保留された「表現」ということになる。
イチローは、プレーで「自分」を表現する。そのことで感動がある。記録が達成されることの感動という物語もあるが、試合の中での緊張というものが在って、そこでイチローが表現する感動というものとは少し違う。記録達成は、MLB機構が作り出す物語の中での感動。
「イチローが表現される」そのことで、MLB機構やマリナーズ球団の矛盾や問題が明らかになることにも。USAや人種問題という社会の矛盾や問題が、明らかになることだってある。もちろん人間の限界を超える、あるいは「人間業ではない」なんてこともあったりする。
ビック楽団のジャズとソウルの違い、ニューミュージックとフォークの神様と言われた岡林の違いなんかでもあるのかも。表現にもいろいろある。写実的な印象派が、ピカソのゲルニカになっていくという表現の歴史は、個人の表現がそれほどちっぽけなもんでは無いことを示しているのかもしれない。

私自身は「自分」を表現したいとは思わない。私が表現する「自分」は、「ちっぽけな自分」でしかない。
批評や学問ということでの表現はあり得るだろうが、それでも主張ではあるわけで、「自分」を出せば、「私は正しい」でしか無いから、その表現では、「自分」を保留するしか無い。批評や学問ということでは、「自分」という枠組みは適用できない。批評の対象や学問そのものの枠組みというものがあって、「仏に逢うて仏を殺し」で、「そうなんだぁ〜」で戻って、そこでそれが「現実」に適用できないことで、「現実」の矛盾や問題がわかってくるという手順が必要。
舛添大臣みたいに、緊急医療のコストや人材という限界、そんな単純な矛盾や問題にも気付かず、「東京都には任せられない」なんていう傲慢ということでは、「私は正しい」で、いつかは心の病ということにしかならない。

やはり、主張は面倒だから、頭の整理でとどめたい。こんなにだらだら書けるのも、主張ということにするほど、綿密な論理的では考えていないからで、説明なんてことを無視しているから。
一人でやる頭の整理は、どうにも締まりが無いみたい。だから、コメントが無いのがあたりまえなんだが、くうさんいつもありがとう!

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